親雲と浄土真宗

親雲と浄土真宗

親鴬が生きた世は、今から七百五十年以上も前の鎌倉の時代です。

これほどの時を経ながら、親驚の教えがいまだに人々を魅了し、新鮮さを失わないのはなぜでしょうか?

その答えこそが、親賛の「革命児」たるゆえんといえるかもしれません。

くわしくは本文でふれますが、親驚はあらゆる意味で仏教界の常識をこえた存在でした。

さいたい僧侶の妻帯が許されない時代に結婚をし、仏教徒が守るべき戒律を「いらないと断じた」親賛。

その姿は、当時の仏教界で異端と見なされることもありました。

あみだぶつしかし、その真意とは、「誰もが差別なく阿弥陀仏に救われる」ということにあったのです。

「阿弥陀仏の真心をいただいていれば、老若男女、善人悪人、賢者愚者の区別なく、じようどおうじよう誰もが浄土往生を約束される」

 

1.この民衆と同じ目線に立った明快な教えこそ、親鴬が人々の熱狂的な支持を得る求心力であったのです。

この親鴬の思想を、さらにわかりやすくいえば、「〃南無阿弥陀仏″ととなえるだけで救われる」ということになります。

しせい市井に暮らす人々が仏教に求めていることは、仏教の難解な教義や研究ではなく、「幸せに生きる方法」です。

親鴬はそのことを熟知していたからこそ、明快な答えを出すことができたのです。

じようどしんし唯うその親賛の教えを説く宗派が、「日本仏教界の最大勢力」浄土真宗です。

仏教にあまり馴染みのない人でも、親驚と浄土真宗の「知りたいこと」が、すぐに理解できるような、平易な作りになっています。

有名な「悪人正機」「他力本願」といった親鴬の教えから、浄土真宗の特徴、しきたりまで、知っておくと必ず役立つ知識が自然と身につくでしょう。

てんだいしゅうしんどんしゅうじ上うどしかうりんざいし呼っそうとうしやうにちれん日本の仏教には、天台宗、真言宗、浄土宗、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗、日蓮宗などの宗派があります。

お釈迦様の教えを受け継ぐ者同士なのに、なぜ多くの宗派に分かれているのでしょうか?その理由は、さとり(ほんとうの幸せ)への道筋の違いにあります。

浄土真宗では、さとりへの道筋を、南無阿弥陀仏ととなえる「念仏」に求めます。

 

親鸞は、なぜこんなにも人を魅了するのか?

親鸞

親驚(二七三~一二六二年)が開いた浄土真宗は、門徒(信徒)数が全国で一千二百万人以上という日本仏教界の最大勢力です。

なぜ、親鴬は、それほどまで人を魅了するのでしょうか1.その最大の魅力は、「人間は愚かだからこそ救われる」と説く教えにあります。

「人間はじっに愚かであさましい生きものである。

私だって欲を求める愚か者だ」親鴬は、自分をさらけ出し、けっして偉ぶることはありませんでした。

僧侶の身ながら、結婚して子どもをもうけたのもその一例です。

そのうえで、「こんな自分あみだぶつじょうどおうじようでも阿弥陀仏の慈悲により念仏することができ、それによって浄土往生がかなうとまどころ信じている。

だから皆ともに阿弥陀仏の真心を一心に受け止めて念仏し、一生懸命生きていこう」と説いたのです。

このように、貴族であろうが武士であろうが庶民であろうが、出家や在家(出家をせずに仏教を信仰すること)、老若男女の区別なく、皆同じ立場で語ったところが人々に共感を与えたのです。

親鴬が生きた平安時代末期から鎌倉時代にかけては乱世。

公家社会から武家社会に移り変わる移行期で、テロやクーデターが相次ぎ、治安は乱れきっていました。

てんさいちへんききんさらに天災地変や飢鐘に見舞われ、まさに地獄絵の様相だったといいます。

人々はまつぽう「末法」の時代がついに到来したかと恐れおののいていました。

しゃかに心う末法とは、仏教の歴史観である「末法思想」の終末期のことです。

お釈迦様の入めつしようぼう滅後、その教えが正しく実践され、さとりを開く者もいる「正法」の時代が五百年ぞう(あるいは千年)、教えが形だけとなって修行してもさとりを開ける者がない「像ぼう法」の時代が千年、その後、教えだけは残るけれど、修行する者もさとりを開く者まつぽうとうもなくなる「末法」の時代が一万年続くとされています。

当時の仏教害『末法灯みよう芸》明記」によって、1052年にはすでに末法の時代に入ったといわれていました。

そんな暗い時代を明るく照らし、人々に勇気を与えたのが親驚だったのです。

 

 

戒律のいらない浄土真宗

 

親鴬が、在家で肉食妻帯したことはあまりにも有名な話です。

これは親鴬が、「誰もが差別なく阿弥陀仏に救われる」ことを身をもって示したのです。

現代でこそ、僧侶の肉食や妻帯は珍しくありませんが、当時の僧侶は仏弟子として戒律(自ら守るべき戒めや教団を統率するための規則)を授かり、それを守るこせつしょうにょぼんはかいとが当然とされていました。

殺生である肉食や女犯となる妻帯は破戒の代表的なもので、戒律を破った者は僧籍を剥奪されるなどの罰を受けたのです。

そして在家信者は、出家して厳格に戒律を守っている僧侶より低い位置にあると見られがちでした。

しかし親鴬は、阿弥陀仏の救いにおいては、戒律を守ることが信仰の価値を決めるものではないことを知らしめ、在家信者を大いに励ましたのです。

 

阿弥陀仏 違いは?

親鴬が活躍した鎌倉時代は、日本史上初の武家政権成立という大変革で始まりました。

その鎌倉時代は、日本の仏教界にとっても大きな転換期になりました。

鎌倉時代に開かれた仏教宗派を「鎌倉新仏教」と呼びます。

鎌倉新仏教は、「仏教の大衆化」という、これまでの仏教がかなえてくれなかった「民衆の救済」を目的とするものでした。

仏教は六世紀半ば、大和時代に中国から朝鮮半島を経て日本に伝わったといわれます。

聖徳太子が治世のために仏教を重んじ、奈良時代には学問を中心とする奈良仏教として発展、平安時代になると比叡山や高野山などを拠点に修行する平安仏教てんだいしゅうさいちょ言うしんどんしなうも登場しました。

比叡山に天台宗を開いたのが競澄であり、高野山に真言宗を開いたのが空海です。

平安時代までの仏教は国の保護のもとに発展し、鎮護国家や五穀豊穣のための予弐』し}一つじゅじゆつ言・祈祷など呪術的なものが中心でした。

また、出家して厳しい修行をした僧侶や、大金をお布施して徳を積むことができる限られた人しか救われないとされていました。

国家権力と結びつく僧侶たちは民衆に目を向けようとはしなかったのです。

平安時代末期になると、前項で述べたように政変と天災で治安は乱れ、末法の世の到来が騒がれ出します。

民衆の苦しみを黙って見すごせなかったのが、鎌倉新仏教の担い手たちでした。

彼らは全員、比叡山(天台宗)で修行し、そこを離脱して新宗派を開きました。

おもな宗派は、法然が開いた浄土宗、親鴬が開いた浄土真宗、一遍が開いた時宗、・えい芸」いり人ざいしゅうどうげんそうとうしかうにられん栄西が開いた臨済宗、道元が開いた曹洞宗、日蓮が開いた日蓮宗です。

鎌倉新仏教の特徴は二つあります。

一つは、いずれの宗派も厳しい修行や仏教学間を学ぶことを重要視せず、「念仏」「坐禅」「題目」のどれか一つを実践するだけで幸せに生きられるという明解な教えです。

「南無阿弥陀仏」ととなえる念仏を重視したのが浄土宗と浄土真宗と時宗、坐禅をすすめたのが臨済宗と曹洞宗、「南無みようほうれんげきょう妙法蓮華経」ととなえる題目をすすめたのが日蓮宗です。

もう一つの特徴は、みだりに国家権力に近づかなかったことです。

新仏教の宗祖たちは、国の保護を受けて自分たちの生活が安定することは、仏教の堕落を招き、民衆をないがしろにすることにつながると考えました。

わかりやすく、単純化された鎌倉新仏教は急速に民衆の間に浸透しました。

そのなかでも異彩を放ったのが、親鴬が開いた浄土真宗です。

親鴬は法然に師事し、念仏に救いの道を見いだしました。

そして法然とともに流罪となったのち、「阿弥陀仏はあらゆる人々を救うと誓われたのだから、その真心に身をまかせて念仏すればよい」という独自の思想に思い至りました。

浄土真宗以外の鎌倉新仏教は仏教を単純化させたとはいえ、念仏や題目をひたすらとなえたり、厳しい坐禅をしたりすることが求められました。

つまり、法然の浄土宗を含め他宗派には〃自力″の部分があります。

しかし、親鴬の教えには〃自力″の要素がまったくありません。

これを「他力本願」「本願他力」といいます。

仏道修行を誰にでも可能なものとしたのが親鴬なのです。

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