「浄土真宗」と「真宗」Iその名前の由来

「浄土真宗」と「真宗」Iその名前の由来

「浄土真宗」や「真宗」

宗名の「浄土真宗」や「真宗」という言葉は、親鴬の主著『教行信証」や、和讃に多く書かれています。

一例として『高僧和讃』を紹介しましょう。

意味は、「阿弥陀仏の大きな智恵のはたらきにより、真の師である法然聖人(法名・源空)がこの世に出られました。

そして、浄土をすすめる真実の教えを説き、阿弥陀仏の本願について述べてくださりました」となります。

つまり「浄土真宗」や「真宗」という言葉は、もともと〃浄土の真実の教え〃という意味を表しています。

それが親鴬の没後、子孫や門弟たちが各地にお寺を建てるようになってから宗名として用いられるようになりました。

ところが一般の人々は、長い間「一向宗」「門徒宗」などと呼んできました。

なぜなら、鎌倉時代の一向俊聖という念仏僧侶を宗祖とする教団があり、その一向宗の流れが、本願寺八代蓮如の時代に門徒として流入したことと関係していたようです。

一般の人々は浄土真宗と一向宗や時宗を混同し、「ひたすら念仏する教団なのだから、一向宗でいいじゃないか」といって、それが定着していったのです。

江戸時代中期、真宗各派は宗名を正式に「浄土真宗」とするように幕府に願い出るも、浄土宗の反対により却下。

浄土教の老舗である浄土宗にとって、他宗派に「ウチこそが浄土往生のための真の宗派である」と名のられるのは納得できなかったでしょう。

1872(明治五)年、新政府からも.向宗」とするように通達されましたが、ようやく「真宗」と名のることが認められ、各派は正式名称を「真宗○○派」としました。

その後、本願寺派(お西)は、「浄土真宗」と冠し、現在に至っています。

本願寺

真宗十派のなかでとりわけ大きな派は、宗祖である親驚の血統を受け継ぐ浄土真宗本願寺派(通称・西本願寺)と真宗大谷派(通称・東本願寺)です。

ともに京都駅のほど近くに本山を置く二派は、それぞれ「お西さん」「お東さん」と呼ばれ、京都市民に親しまれています。

浄土真宗 西 東

西本願寺も東本願寺ももとは一つの本願寺でしたが、江戸時代に入る直前の1602年に分立しました。

分立の経緯について簡単にふれておきましょう。

戦国時代、大坂石山を拠点としていた本願寺と織田信長との間で、1570年から十年にわたって続いた石山合戦がありました。

本願寺の敗色が濃くなり、1580年に信長から和解を呼びかけられた本願寺十一代顕如はすぐに和解に応じきいさ苫一のもり蛍》ようにょて紀伊鷺森(和歌山市)に退去しました。

ところが顕如の長男の教如が和解に反対して石山本願寺に立てこもります。

しかし教如も信長の攻撃に耐えられず、わずか数カ月で撤退しました。

和解からまもなく、信長は本能寺で討たれ、豊臣秀吉が天下を統一します。

1591年、秀吉は本願寺と友好関係を取り、京都六条堀川に寺地を与えて、本願寺は京都に移ります。

これが現在の西本願寺となるのです。

翌年、顕如が急逝すると、長男の教如が十二代となりますが、

秀吉は「教如は石山合戦で信長に最後まで抗戦した危険人物であること」

「教如の弟の准如を後継者とするとした顕如の譲状があること」などを理由に、

1593年、弟の准如を十二代とし、教如を隠退させました。

教如にとっては納得いきません。

また教如を慕う門徒もいたため、失地回復をはかろうと、当時勢力を伸ばしはじめていた徳川家康に近づき親交を深めました。

秀吉に代わって天下を取った家康は、「准如より教如のほうが自分に友好的である」

「巨大勢力の本願寺は二分しておいたほうがよい」ということで、

1602年、教如に京都六条烏丸の寺地を与え、現在の東本願寺ができたのです。

こうして本願寺は東西に分立したのです。

東西両派は、もともと教義的な理由で分派したわけではないので基本的な教えについては変わりませんが、

おつとめの作法や仏具など随所に違いがあります。

浄土真宗 仏壇 西と東の違い

たとえば、「南無阿弥陀仏」ととなえる念仏は、お西は「なもあみだぶっ」と発音し、お東は「なむあみだぶっ」と発音します。

焼香の回数は、お西は一回に対して、お東は二回。

仏具のロウソク立ては、お西は銅に黒茶色の漆塗りをした宣徳製で、お東は亀の背中に乗った鶴が蓮軸をくわえた姿をした真鋪製の鶴亀燭台を使います。

また、宗派のトップをお西は「門主」、お東は「門首」と書きます。

さらには、おつとめでもとなえる、浄土真宗中興の祖である蓮如の書簡のことを、お西は「御文章」、お東は「御文」と呼びます。

このようにさまざまな違いがあることから、東西両派は不仲であると思われている方も多いようですが、そんなことはありません。

組織が二分されたために、あえて形の上での区別や特徴がそれぞれに整備されたといえます。

現在は交流も盛んで、両派が先頭に立って浄土真宗全体を守り立てています。