浄土真宗ではなぜ「戒名」といわない?

浄土真宗ではなぜ「戒名」といわない?

浄土真宗では、仏弟子となった証として与えられる名前(仏名)を「戒名」とはいわずに「法名」と呼んでいます。

通常、仏弟子となるためには、師である僧侶に戒律を授けられ、これを守ることを約束して戒名をいただきます。

しかし親鴬は、戒律を仏道修行の条件とはせず、阿弥陀仏より賜る信心によって浄土往生が約束されていると説きました。

したがって浄土真宗では、仏弟子として与えられる仏名を戒名とはいわずに法名と呼びます。

法名

浄土真宗の法名は通常二文字です。

その上に、お釈迦様の弟子である証に「釈」とつけて、「釈□□」となります。

女性は「釈尼□□」とされることもありましたが、近年はあえて男女の区別をせずに、女性も「釈□□」と「尼」をつけない傾向にあります。

 

真宗十派

浄土真宗は、その歴史の過程で多くの派が形成されました。

そのなかでおもな十派が「真宗十派」として真宗教団連合をつくり、交流をはかっています。

真宗十派は、親鴬の血統を継ぐ浄土真宗本願寺派(お西)と真宗大谷派(お東)の二派と、親鴬の関東布教時代の門弟の流れをくむ八派で組織されています。

真宗十派

八派のなかでは、真宗高田派が最大勢力です。

明治時代までは出家して僧侶となった者の結婚は認められていませんでした。

ですから、浄土真宗以外の宗派では宗祖の血統は継がれていません。

親鴬は僧侶の立場を捨てたのちに妻子を得て、生涯にわたり仏法を説きつづけました。

その教えは子息に受け継がれていったので、日本の仏教界でも唯一、世襲されてきた宗派なのです。

つまり、現在に至るまで本願寺派と大谷派の門主(門首)は、ともに親驚と血がつながっています。

本願寺派と大谷派は、もともと「本願寺」という一つのお寺でした。

一六○二年、十一代顕如の時代に本願寺は政争に巻き込まれ、二つの教団に分立することになります。

それが、顕如の三男である准如が受け継いだ本願寺派と、長男の教如が受け継いだ大谷派です。

その経緯については別項で述べます。

親鴬の門弟の流れをくむ八派の代表格は真宗高田派です。

親鴬は四十二歳から約二十年間、北関東を中心に布教活動をしました。

その関東時代、布教した地である栃木県真岡市高田に親鴬がつくった念仏道場(現在の専修寺本寺)が高田派の始まりです。

門弟の真仏が中心となり、ここを拠点として高田門徒を形成しました。

つまり高田派は、親鴬の血統を継ぐ二派に対して、教えによる法脈を受け継いでいます。

また高田門徒は、親鴬が関東在住の頃から一大勢力を擁しており、初期真宗教団形成の中心的な役割を担ったともいわれています。

その後、高田門徒は東海や北陸に布教活動を拡大します。

そして十五世紀には三重県津市一身田町に新たに専修寺をつくり、本山としました。

本願寺派、大谷派以外の八派のうち高田派の流れに連なるのが、京都の真宗悌光寺派と真宗興正派、北陸の真宗三門徒派、真宗誠照寺派、真宗山元派、真宗出雲路派です。

そして唯一、高田派の流れをくんでいないのが真宗木辺派です。

木辺派の本山は、滋賀県野洲市木部の錦織寺です。

関東布教を終えた親鴬は、六十三歳の頃に京都に帰ります。

その帰路で宿をとったことが縁となり、周辺の人々が親鴬に帰依し、この地で木辺門徒が形成されました。

親補はここに立ち寄つたときに主著である『教行信証』を完成させたともいわれています。

左の表でわかるように、真宗十派の寺院数を合計すると全国に二万一千余りのお寺があります。

そして、浄土真宗本願寺派と真宗大谷派の二派だけで真宗十派の九割以上を占めています。

真宗十派のほかにも、真宗浄興寺派(本山・浄興寺、新潟県)、原始真宗(大本山・願入寺、茨城県)、昭和の時代になって大谷派から分離独立した浄土真宗東本願寺派(本山・東本願寺、東京都)など浄土真宗系列の派があります。

真宗十派 門徒制度